昨年まで、TVやCMでよく耳にしていたと思います。
特にNTT DoCoMoのCMが印象的でした。
イギリス出身のアイドルグループで21世紀のビートルズとも言われているそうです。
しかし、メンバーの1人が脱退して、残念ながら2016年3月から最低で1年間の活動休止を発表したらしいです。
とても残念ですね。早いうちに、再活動してほしいと思います。

ポール・マッカートニーとは言わずと知れたイギリス出身の
ミュージシャン。あの有名なビートルズのメンバーの一人です。
ビートルズと聞くとまっさきにジョンレノンの顔が浮かびますが
このポール・マッカートニーもそれは素敵な歌を歌う方なのです。

年齢はもう70を過ぎていると聞いていますが最近になって
また精力的に活動を始めているそうです。先日も日本に来日を
果たし日本のファンを魅了させました。私も生で一度でいいから
お会いしたいと思っている一人なのですが生憎その日は都合が悪く
結局一目でも会いたいと思った願いも叶うことはありませんでした。

活動をしているうちに是非また日本に来日をしてくれないかと
切に願っています。ビートルズの歌は今の若い人も一度は
きっと耳にした事がある歌ばかりだと思います。
ジョンレノンにいたっては知らない人はきっといないだろうと
いうくらい有名なミュージシャンです。マイケルジャクソンと
同じくらい知名度は高いのではないでしょうか。歌のジャンルは
違えばどちらも世界を動かすミュージシャンでこれからも
ずっと多くの人に愛され続けていくのでしょうね。

彼女は、本命をホイットニー・エリザベス・ヒューストンと言います。
お母さんは、シシー・ヒューストンと言って、有名なゴスペル・グループ「スイート・インスピレイションズ」のメンバーです。
このお母さんの聖歌隊ジュニア・ゴスペル・クワイアに11歳の時に加わり、ニュージャージー教会で歌い、ゴスペルを基礎から学んだそうです。

17歳からは、ファッションモデルとしても活躍して、テレビコマーシャルにも出演してタレントとして活動しながら、母と一緒に、全米のナイトクラブをツアーしていました。

1983年ニューヨークのナイトクラブの彼女のパフォーマンスをみたアリスタ・レコードの社長、クライヴ・ディヴィスに見出されて、アリスタとワールドワイド契約を結びました。

「ザ・マーヴ・グリフィン・ショウ」というTV番組に出演し、彼女のあの勢いとパワーのある衝撃的な歌声を初めて全米ネットにて披露しましたが、それはアメリカの音楽業界では、歴史的パフォーマンスとして、語りつがれているそうです。
1985年2月アリスタから「そよ風の贈りもの」でデビューします。

初のグラミーを受賞したのが21歳で、それからも7曲連続全米ナンバーワン記録を打ち立てて、すばらしい功績をおさめました。

彼女は次々とアメリカにヒット曲を送り出していきましたが、世界中が彼女の歌声を知ったのは、1992年11月に発表した「ボディガード」ではないでしょうか。
これは、全世界で3000万枚の売上げを誇ったそうです。日本でも250万枚、アメリカで1700万枚だったそうですよ。

俳優ケビン・コスナーと女性歌手ホイットニー・ヒューストンが共演した
「ボディーガード」の映画で、主題歌にもなりましたが、
彼女の歌った「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は、大好きです。

彼女は2012年2月11日にビバリーヒルトン・ホテルの4階の部屋の浴槽中で倒れており、救急隊が蘇生処置を施しましたが、48歳の若さで、午後3時55分に死亡が確認されました。
彼女は翌日のグラミー賞の授賞式のためにこのホテルに泊まっていました。
死因は、遺体からコカインが検出されたことから、その影響で、心臓発作が起こり、よくそうで溺死した可能性が高いそうです。

まだまだこれから歌声を世界に響かせていって欲しい名シンガーだったのでとても残念ですが、彼女が残した歌声は永遠に消えることがないでしょうね。

 

レディガガ

今この女性の名前を知らないと言う方は少ないのではないでしょうか。
元々洋楽が大好きで学生の頃から聞き始めていたので色んな洋楽アーティストを
好きになりました。その中でも「レディ・ガガ」はとても特別な存在です。

彼女の歌はどれも耳に残りやすく聞きやすい音楽が多いのですが、
その楽曲のプロモーションビデオもとても特殊なのです。
ライブでもとても演出にこだわっていて一種のパフォーマーだと思っています。
(まだ生で彼女の声を聞いたことはありませんがライブビデオを見て感動しました)

そして何よりも彼女の人生をドキュメンタリーで特集をしていた時に
壮絶な過去を知り、今の彼女の生き方を見て、本当の意味で彼女の
ファンになりました。
彼女は元々ジャズシンガーとしてやっていたのですが、あるきっかけで
今のスタイルに変更した途端にヒットをしたそうです。
彼女の過去を知れば知るほど彼女の虜になると思います。

現在28歳の彼女ですが、彼女のことを知らない人でも、彼女の歌声をテレビやラジオ、有線から耳にしていると思います。

Wikipediaによると、彼女は14歳の時、オーデションを勝ち抜いて、カナダ人歌手シャナイア・トゥエインのコンサートツアーに参加したそうです。

地元のフォークシンガー、スティーヴ・メッドにもその才能をかわれて、自分の歌の「Touch The Sky」を歌わせたそうです。

大手の書店でカバー曲を歌っていたところを音楽マネージャーのクリフ・ファブリの目に留まったところから、レコード会社の社長とプロデューサーに紹介してもらったところ即契約になったそうです。

2011年には、めざましテレビに出演して、「Smile」を歌っていますが、ちょうどその時、テレビを見ていたので、覚えています。

アヴリルラヴィーンを知ったのは、今から3年くらい前なんですが、子供がよくきいたいたので、これ歌っているの誰?ってきたのがアヴリルラヴィーンでした。
そうなんだって思っていたらあちこちで聞くようになり今ヒットしているんだな~って思ってました。
今でも、うちの子は好きみたいで、よく聞いていますよ。

 

ABCの歌

誰もが必ず聞いた事がある「ABCの歌」を日本に伝えた日本人がジョン万次郎だと言われています。

ずっと英国圏の人が来て、歌って教えてくれた事が現代でも歌われているのだと思っていたのですが、実は日本人が 自ら学んでいたのだという事が分かりました。

それに日本にこの歌がきたのは江戸末期だったということに驚きです!!

江戸時代といえば日本は鎖国真っ只中でしたが、決して関心がなかったわけではないみたいです。

日本で一番最初に英語を流暢話せたのもジョン万次郎だと言われています。

この人がいなければ。日本に英語は伝わっていなかったという事です。

 

英語というのはかなり身近な異国言語なのかなとおもいます!!

 

土佐とは、何処の県なんでしょう。
土佐とは、高知県です。

ちなみに、薩摩は鹿児島県のほぼ西半分で、長州は山口県のほぼ西半分です。
土佐の祭りといえば、「よさこい祭り」。土佐の人達はお祭り好きで、エネルギッシュで、自由奔放な土佐人らしいです。

「いごっそう」という土佐人男性気質を表す言葉がありますが、
その意味は、頑固で骨のある男、酒豪、いっこく者といったところでしょうか。
土佐といってすぐイメージするのは、坂本龍馬ですが、彼も「いごっそうだったんでしょうか。

広い海と空、そして美しい山と自然が豊かな高知県。
鮮魚も農作物も、とても美味しいところです。

観光で一度いった事がありますが、のんびりとした南国という感じでした。
カツオのたたきは名産品で、しっかり食べてきました。それから、文旦(ぶんたん)と言う見た目はグレープフルーツとかの大振りの柑橘系の果物も初めて知って、いただいてきたのですが、グレープフルーツやみかんとはまたちょっと違う、ほんのりとした甘酸っぱさとコクのある甘みがあり、繊細な味で、大変美味しかったです。
東海地方ではあまり見かけたことがなかったので、めずらしかったですね。

そんな、自然が豊かでのびのびとした土地に育ったジョン万次郎ですから、新しい文化を柔軟に取り入れること、広めることが出来たのではないかと思います。

 

運命の逆転

彼は小さい頃から、亡くなった父の代わりに、家族を養うために、読み書きも習う暇もなく、漁に出て、嵐にあい遭難するという、理不尽な運命だったのが、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられた所から、運命が逆転し、大きく開けるようになりました。

船長のホイットフィールドの養子となり、彼の頭のよさが生かされる環境を与えられました。
学校へ行き、寝る間もなく勉強し、首席となり卒業したそうですが、そこはアメリカです。すべて英語で学んだことを思うと、彼の賢さと、努力は、相当のものだったに違いありません。
彼の身に付けた、知識はその後の彼の活躍に大いに役立ったことでしょう。

彼はアメリカで暮らしていれば、何の心配もなく、裕福に暮らすことが出来たに違いありませんが、彼の中では、やはり故郷へ帰りたいとい思いが強かったのですね。

カリフォルニアで金鉱を発見して、日本へ戻るお金を作り、仲間と一緒に日本へ戻ることにするのですが、鎖国制度をとっていた、日本では、帰ってもどうなるか分からなかったはずです。

それでも、故郷に帰りたい一心で、彼は帰ってきました。

息子がいる立場の母親からの目線で見ると、そんな思いをしても帰ってきてくれてどれだけうれしかったのかしれません、そして、彼のことが、心配で仕方なかったことでしょう。

彼が遭難したと聞いた時、相当悲しんだでしょうか、漁船の遭難ですから、あきらめていたのかもしれませんし、まさか、アメリカで過ごして、こんな大物となっていたとは、驚いたでしょう。
そして、英語をペラペラと話すようになっているのですから。

今からおよそ150年前、みなさんのお祖父さんのそのまたお祖父さんが子どもだったころ、東京を「江戸」と呼んでいたころのお話です。
日本は「鎖国(さこく)」といって外国の人たちとつきあうことを禁止していました。近くに来た外国船が日本の港に立ち寄るのも、日本人が外国と品物を売り買いするのもいけないこととされていたのです。
 こうした国の大事なことを決めるのは、刀を持ったお侍だけ。武士以外の人々は政治について意見を言うことはできませんでした。
そんな江戸時代の終わりごろ、土佐(いまの高知県)の漁村にいた少年万次郎は、漁に出た途中、嵐にあって無人島に流されてしまいます。そこへ偶然アメリカの捕鯨船が通り救い出され、初めてアメリカの人たちと出会うことになるのですが・・・。
けれども万次郎少年は心をひらいてアメリカの言葉を学び、進んだ文明に触れ、たくさんのことを学びます。言葉も、着るものも、考え方もちがう日本人とアメリカ人。万次郎が夢見るとおり、分かり合うことができるのでしょうか?

 実在したジョン万次郎(中浜万次郎)の半生をもとに、人と人が分かり合うことのむずかしさ、お互いに心をひらくことの大切さを描いたこのミュージカル。あなたも万次郎と一緒に冒険の海へ出かけてみませんか?

今から何十年も前「ジョン万次郎」というテレビ番組があった。何で惹かれたのかはわからない。断片的なシーン2つくらいしか覚えてはいないし、ストーリーも覚えてはいない。でも、何か気になるものがあった。その後井伏鱒二(いぶせますじ)著の「ジョン万次郎漂流記」を買って読んだ。たぶん夏休みの読書感想文を書くためだった。おもしろかったという記憶はない。今読めば少しは理解できるかもしれないが。

 ジョン万次郎は、幕末、海外の情勢や文化を日本に紹介できたほとんど唯一の日本人。14歳のとき漁に出て遭難、捕鯨船に拾われてアメリカに渡る。10年後戻ってきたとき日本は黒船騒ぎの真っ只中、ペリーがやって来る2年前だった。それまでの日本は鎖国(さこく)を続けていたから、英語を理解できる人間はいなかった。